特定非営利活動法人MPI 
(2004年内閣府認証取得) 
HomeTokyoKyotoFukuoka

維新の路を行く

土佐の路――豪胆にして直情、「いごっそう」の血脈(虎)

明治維新ゆかりの地に足を運び、近代日本をつくった先人たちの気概と足跡を紹介する連載「維新の路を往く」。第二回となる今回、スタッフが訪れたのは現在の高知県、すなわち土佐である。坂本竜馬や中岡慎太郎、後藤象二郎など、幕末から維新にかけて多数の志士を生み出した、この地の風土と人々の生き方には、いま求められている現代の維新New Beginningへの手掛かりが潜んではいないだろうか――。

はじめに

土佐の男は「いごっそう」、女は「はちきん」と称される。頑固で強情、一度決めたらやりとおす男、勝ち気で働き者の女。維新の英傑もその多くが「いごっそう」であり、それを支える女たちもまた「はちきん」だったのではないだろうか。

土佐の精神文化としてもう一つ、忘れてはならないのが「反骨精神」である。時の権威に服従せず、自分の道を貫き、世に訴える。そしてそれは「自由」という言葉とも切り離せない。自由思想の原点ともいえる龍馬の船中八策しかり、板垣退助らの自由民権運動しかり、「自由は土佐の山間より」という言葉に表されるように、自由思想が根付いていたことがわかる。

土佐から自由思想が生まれた背景としてはその地理的、歴史的要因によるものが大きい。古くは1000年以上前の時代から、海と山に阻まれたその地理から、中央での権力闘争に敗れた者や罪人が流される地として認識されており、そこに居つく土佐人もまた中央とは相容れない風土があったのかもしれない。

特に、江戸時代以降になると、山内家の入国により、旧来土佐を治めていた長宗我部家の臣下と、新しい国にやってきた山内家臣下という、二つの階層が自然と形成されるようになった。この階層が実に200年以上も続くことになる。その間、果たしてそうした階層が人々、特に郷士と呼ばれる下級武士の心魂にどのような影響を及ぼしたのか、それは知るべくも無い。


△桂浜:太平洋に面する桂浜に打ち寄せる波は荒く、強い。


少林塾と土佐勤王党

維新に活躍した土佐の志士を取り上げるにあたり、坂本龍馬や中岡慎太郎の名前についてはご存知の方も多いことだと思う。しかし今回は志士達を生み出すに至った原点ともいえる、少林塾と土佐勤王党について焦点を絞ってみたい。


少林塾~改良者の泉~

少林塾とは、土佐藩の参政を務め、土佐の藩政改革に尽力した吉田東洋が開いた私塾である。東洋は幼少より英才の誉れ高く、藩政においても重用されるようになる。

しかし、安政元年に酒宴の席で土佐藩当主である山内家ゆかりの旗本の振る舞いに怒り、頭を殴るという行動に出てしまう。酒の席とはいえ、さすがに藩より蟄居謹慎の沙汰が下り、長浜(現在の高知市)に篭ることになり、その間に開いた私塾が少林塾(鶴田塾とも言う)であった。

この少林塾からは後藤象二郎や福岡孝弟、岩崎弥太郎といった人材が出ているが、いずれも維新前後に土佐藩を代表する人物として活躍することとなる。

この松林塾についてはその経緯から長州藩の松下村塾と比較されることが多い。松下村塾が変革者の泉であったとすれば、松林塾は改良者の研鑽の場であっただろうか。そもそも土佐には江戸前後より南学という学問が存在していた。朱学をもととし、諸家が伝承していくことで非常に多くの流派が生まれたが、一貫していたのは仁義を重んじ、本末の分を明らかにするとともに、実践躬行を先とする、というものであった。

東洋の思想は南学を基としつつも、特に政治経済に重きをおき、利用厚世・藩国治術を志向するものであった。訓古に重きをおかず、経済を施行するという姿勢から経世実用の学風を樹立したことは、後藤や岩崎など、明治の黎明期において政治・経済の面で非常に大きな影響を与える人材を輩出する一方で、武市をはじめとする勤王党と反目する原因ともなった。

東洋は復職後、藩政改革を推し進め、制度改正役場を設け、武家格式の簡素化を推し進めると共に、財政策も迅速に実施していった。

半知借上の中止による緊縮を推し進める一方で藩校文武館の建設や洋式銃砲の購入など海防・教育関係については支出を惜しまなかった。文武館(後に致道館と改称)では蕃書(洋書)の教授も行われ、上士に限らず下士・軽格の者まで対象とすることとなった。こうした改革は時代の趨勢にも適合するものであったが、同時に保守門閥の反発を引き出す結果ともなった。


土佐勤王党~早すぎた変革者達~

土佐勤王党の党首である武市は白札郷士という、郷士の中では最も上位に位置する地位の家に生まれた。このことが上下の差別が激しかった土佐において、郷士層をまとめあげ、藩全体の思想と行動について大きな影響を及ぼすことになったという意見は多い。

東洋が改良者として藩政を取り仕切っていたころ、武市はより大きな日本のあるべき姿を描き、一般勤王の思想を持って藩論を公武合体から尊皇攘夷に転換することを説いた。

藩政と密接な距離にいた東洋と違い、あくまで郷士の所帯でしかない武市にとって、「残奸」の名のもとに有力な佐幕者を抹殺していくことは、自らの思想を実現するための手段に過ぎなかったのかもしれない。そしてその対象は東洋にも及び、保守門閥層と組んで東洋を暗殺するという行動に及ぶこととなる。こうして一時は藩政を掌握しつつもあったが、早すぎた理論は常に反発に遭うのが世の常だ。武市も例に漏れず、最後は三つ文字に切腹を果たすこととなる。武市の遺言とも言うべき、獄中から妻に宛てた手紙の中には次のようにある。

花仍清香愛人以仁義榮
幽囚何可耻只有赤心明
(花は清香に依って愛せられ、人は仁義を以って栄ゆ。
幽囚、何ぞ恥ずべき、只赤心の明らかなるあり)

自らの正しさに胸を張り、意見を変えることが無い、その、時には不器用とも言える生き方は、まさに「いごっそう」としての土佐の男のありようを示しているように思える。


間崎哲馬~東洋と武市の狭間で~

少林塾と勤王党、まるで正反対の思想のように思えるが、この2つ双方に所属したことのある人物がいる。間崎哲馬(滄浪)である。天誅組を結成し、若くして散った吉村寅太郎や中岡慎太郎にも大きな影響を与えている。

間崎は、武市と共に土佐勤王党を結成した中心人物の一人だが、勤王党はその後間崎の師でもあった東洋を暗殺することとなった。間崎は東洋暗殺の報を江戸で聞いたはずであるが、一体どのような気持ちできいたのであろうか。結局間崎自身も翌年、藩から切腹を命じられることとなる。間崎は一人娘に宛て、以下のような辞世の句を残している。

守る人のあるかなきかは白露の
置きわかれにし撫子の花

自らの信じる道を追い求めながら、師の暗殺を乗り越えなければならなかった間崎の句は、変革者が常に向き合わざるを得ない苦悶を、悲しくも美しく表現している。


いごっそうの血脈

維新前後から明治にかけ、多くの志士や自由民権の運動家が土佐より輩出された。その多くが豪胆かつ直情で、一度言ったら聞かない、そんな気風を具えているように思える。そしてその背景には、反骨精神と、これに基づくチャレンジの気概が脈々と受け継がれているように感じる。

そしてもう一つ、こうした土佐人に共通するものがある。酒だ。

藩主自ら(山内容堂)鯨海酔侯と称するなど、高知県は酒飲みが多い。いごっそうは酒飲みで、議論好きで、人が右といえば左、白といえば黒という、そんな気質なのだ。「べく杯」という杯は円錐形をしており、机に置くことができない。穴の空いたものもあり、自分の指で蓋をしながら飲み干さなくてはならない。そして「献杯」、つまり相手に自分の杯を差し出し、一杯飲んだら杯を返してもう一杯……と延々と続く。

議論好きなのはいいのだが、いざ思い返してみると何を喋ったのか覚えていない。ある意味で最もタチの悪い部類に入るのかも知れない。

しかし、小さなことにはこだわらず、大きなことを議論することが、現状では考えられない(誰もできると思っていない)ことを発想し、時代の流れを捉えて実現していく、ということに通じるのかも知れない。いずれにしろ、何かをやり遂げるには少々のことにはこだわらず、大きく、高い視点から構想することが大事であり、その背景には現状に対する危機感と共に、あるべき姿を模索する志が必要だと、改めて感じさせられるのだった。


(追記)

土佐は自分が高校卒業までの18年間を過ごした場所だが、今回改めて足を運ぶと、今更ながら坂本龍馬に代表される維新の志士に対する評価が根強いのには驚かされる。

桂浜には何度行ったか分からない。大学時代も帰省すると海まで出かけ、日がな一日海を見つめていたものだった。桂浜に行くと、「何か重大決心をするために龍馬の銅像に来た」という人にしばしば出会う。

おそらく、ちょっとした目標であっても、それを決断し実行していく勇気はなかなか湧いてくるものではない。そんなとき土佐の人々は、龍馬のような英傑の力を借り、決意を固めようとするのだろう。

しかし勿論、より重要なのはその決断した目標をやり遂げる力であると思う。幾多の障害・困難を乗り越える力、それは誰に頼ることも無く、自らを信じることから生まれるものであろう。

今回取り上げた東洋や武市、龍馬もそうだが、まず「できるはずだ」と信じるところから全てが始まっている。そして、その思いが強ければ強いほど、説得力を持って人に語ることができ、それを人が信じてくれるのだと思う。

時には酒の力を借りてもいい。とにかく、自分から始めることだ。そう自分に言い聞かせて、また酒を飲む……。


※この記事は2004年5月発行の『New Beginning』第3号に掲載したものです。

date: 2004.05.31

Copyright © MANAGEMENT & POLICY INSTITUTE 2007  powered by Movable Type 3.33-ja