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特定非営利活動法人MPI (2004年内閣府認証取得) |
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維新の路を行く薩摩の路――郷中教育に今昔維新の源流を想う(楠刀)「維新」とは、古代中国の「詩経」を出典とし、「旧弊を改め、新しいものへつないでいくこと、一新すること」を意味する。時代が変わる兆しが感じられる今、幕末・維新の志士が歩んだ路を歩いてみよう。第一稿では、我が国の教育問題や人材育成を念頭に置きながら、明治維新の原動力となった薩摩の人材輩出の源を紹介していく。 薩摩の教育 まず、近代日本を築く原動力になった薩摩藩の人材輩出力を支えた「郷中教育(ごじゅうきょういく)」について触れようと思う。 薩摩藩からは、ざっと挙げただけでも、西郷隆盛や大久保利通をはじめ、松方正義・森有礼・寺島宗則・大山巌といった多くの人材が郷中教育を受けて巣立った。 郷中教育は、慶長年間は島津義弘の頃に確立されたと言われる薩摩藩独特の子弟相互の教育制度である。後に詳細を述べることとするが、その精神は奇しくも我々MPIの人材育成に通ずるものがあることに思い至るのである。
その特徴は、「年長者は年少者を指導し、年少者は年長者を敬いながら、団体の中で共に学ぶ」というもので、「武道修練」「忠孝実践」「山坂達者」という教育理念を掲げていた。また、藩士の家に格の上下はあっても、郷中教育の下では平等に扱われたという点も特徴的である。 ある一日を例として挙げれば、稚児は早朝より先輩の家を訪ね、四書五経など儒学の書物を中心に読み書きを習う。食事をとった後、体を鍛えるため、相撲や山登り、降参言わせなどを行なったという。「降参言わせ」とは、敵と味方を分け、一方が相手を倒して馬乗りになり「参った」と言わせた方が勝つ、というものである。午後は、再び書物を読んだり、薩摩武士としての心得や魂を短歌に詠んだ島津日新斎(忠良)の「いろは歌」を学んだりする。「いにしへの道を聞きても唱へても わが行いにせずばかひなし」と実践の重要性を説くことから始まるこの歌は、薩摩武士の心得を学ぶものとして重宝された。 他にも、子弟たちは詮議という問答形式の討論会を行い、武士としての実践的判断力の養成につとめたという。今で言えば、ディベートやグループディスカッションの類であろう。そして、夕刻になれば剣や馬術、柔術などを習うのである。子弟たちは一日の長い時間を上下の年代の人間とともに過ごしており、その中で、多くのことを学んだことが容易に想像できる。 子弟は「負けるな」「義(=言訳や嘘、理屈)を言うな」「弱い者をいじめるな」と教えられ、剣術の稽古に際しては気合を入れるために「チェスト!チェストー!」という掛け声を威勢良く出したという。「刀は抜くべからざるもの」として、無益な殺生を戒めると同時に「危急の際迷わず一気に打つ」という、薩摩示現流の気合と勢いを叩き込まれながら薩摩の武士は育ったのである。
早い段階から学問や教育の重要性を認識し、情勢に応じた的確な施策を打っていったことは、薩摩藩が国難を乗り越え、変革の担い手となることにつながった。現在の日本においても、教育の重要性は何ら変わるところはない。
新時代の激流に投げ込まれた明治政府が国家としてまず考えなければならなかったことは、近代教育の早期確立とその普及であったと言っても過言ではない。何より、藩の意識を捨てた、新しいリーダーの育成を必要としていた。旧制高校はその期待を一身に背負い「国家全体ノ重要ナル部分ヲシムルモノ」「社会思想ヲ左右スルニ足ルベキモノヲ養成する場所」として発足した。 鹿児島に設立された旧制高校はナンバースクール(旧制一高から同八高までを指す)の一翼を担った第七高等學校造士館である。設立は明治34年であったが、その前身は薩摩25代藩主島津重豪によって既に創設されていた藩学造士館であった。蘭癖大名とも言われた重豪は進取の気性に富み、数々の開化政策を施し、西洋の文化も積極的に取り入れた。例えば、今の鹿児島最大の繁華街「天文館」の名も元は重豪の建てた天文観測施設である明時館に由来している。重豪が後の斉彬の開明政策に影響を与えたことは有名な話である。 「士を造る」精神を受け継いだのが七高造士館(現・鹿児島大学)で、藩校を前身とするユニークな生い立ちは、その校風に多大な影響を及ぼした。校舎は緑したたる城山を背に、錦江湾越しに雄大な桜島を正面に望む鶴丸城跡にあり、七高の著名な祈念祭歌「北辰斜めに」の中には「不屈の色も厳かに東火を噴く桜島」との一節がある。 旧制高校生活の真髄といえば、やはり寮生活と言われることが多い。三年という区切られた期間ではあるが、自治を標榜した寮生活の中で共に酒を飲み、議論を戦わせ、高歌放吟しながら、自らの生き様や天下国家を考えたのである。彼らこそ、「自己の利益を犠牲にしてでも世のために貢献する」”Noblesse oblige”の精神を兼ね備えたリーダー層であった。 何かと功罪を問われることも多い制度であるが、欧米の学問・文化そして国力を敏感に感じていたのは、むしろ旧制高校出身者であった。そして、旧制高校で学んだ人々の多くがその時代を疾風怒濤(シュトゥルム・ウント・ドランク)と呼び、「素晴らしい教育だった」と振り返るのである。例えば、一高で学んだ三重野康氏(元日本銀行総裁)は「一高の寮生活は一見放恣にさえみえるが、内容は豊かな人間形成を目指したものであった。私自身この時代に得たものや友人が、その後の半生のバックボーンになったと思う。今の学生生活に、このような旧制高校の生活がないのは、私にとっては大変残念に思われる」と語ったことがある。今の世に学ぶべきものは冷静に学んでいくべきであろう。
また、鶴丸城の本丸跡には黎明館と呼ばれる総合博物館があり、丁度訪ねた折に特別展として「激動の明治維新展」が催されていた。ここでは、薩摩藩が経済力や軍事力を背景に幕末の政局における主導権を握り、維新に至るまでの経緯が様々な展示物を用いて解説されていたが、特に「薩摩藩が本土最南端に位置し、先駆けて外圧を体験したからこそ、開明的な富国強兵・殖産興業を展開し、明治維新における主導的な役割を果たすに至った」というメッセージ性が印象的であった。 薩摩藩が開明性や情報収集力で優れていたことを語る際に忘れてはならないのが、尚古集成館である。集成館は日本最古の本格的工場建築で、雄大な桜島を間近に望む広大な名勝仙巌園(通称・磯庭園)のすぐそばにある。西郷らを抜擢したことでも知られる第28代藩主島津斉彬は、英国で第一回の万国博覧会が開催された嘉永4年に藩主になり、近代日本産業の礎となった「集成館事業」に着手した。蘭学や海外への関心が高かった斉彬の下で、富国強兵・殖産興業の前提となる鉄鋼や造船といった西洋技術の吸収や事業化が行われた。近代工業集積地だった集成館を訪れると、砲身を製造するための反射炉の土台や我が国初の溶鉱炉の跡地をみることができる。 また、江戸幕府は、諸大名に大砲や軍艦を造ることを禁じていたが、島津の提案によって大船の建造が解禁され、薩摩は日本初の西洋式軍艦「昇平丸」を完成させた。同時に、この時「昇平丸」に掲げられたのが「日の丸」であり、斉彬が日の丸を日本の旗にするよう幕府に提案したのである。鎖国・諸藩割拠の時代に各藩の旗はあっても日本全体を認識した「国旗」というものは容易に考えられるものでなかったと思われる。斉彬は外国船と区別するためにも「日本の船」の印が必要であると考えており、藩を越えた国という視点を意識していたのである。さらに、近代産業の発展のため、海外へも目を向け、五代友厚や寺島宗則ら留学生を英国へ送り出した。その港跡には今でも碑が建っている。既成の枠組みを越えた視点で物事を捉え、新しい施策に取組み、果断にチャレンジを続けたことが後の維新に大きな影響を与えたのである。
昨年、日本の次代を担う人材育成を目的として、トヨタやJR東海などによって全寮制の中高一貫教育校を開校する動きが報じられた。これも「公私にわたる全人格的な教育」の重要性が認識されてきたことの証左と言えよう。 さらに、世界を見渡せば、英国には指導者層を輩出する伝統的なパブリック・スクールがあり、新しいところでも、中国が幅広い年齢の子供を集団で学ばせるエリート教育校を上海に開校したという。広大な敷地の中には「欧米タウン」と呼ばれる区域があり、生徒たちは英語で会話をしている。今、リーダー教育についての関心は非常に高まっている。 しかし、教育=知識の詰め込み、ではない。 educationの語源はラテン語の「educare=内面にあるものを引き出す」だと言われる。潜在的な力を引き出す真の教育に必要なのは、子供たちに夢と矜持を与えることである。自分のやりたいことや目標を、信念を持って捉えることができれば、人は自ずと覚悟を持って前へ進むものである。自ら設定した目標に向かって歩みを進めるために、自ら学ぶ。自ら学んで、歩みを進める。 それは同時に、「何かを志す」ということでもある。「志」という漢字は進みゆく足の動作を意味する【之】と【心】から「心が何かを目指して向かっていくところ」を指すという。志と教育こそ表裏一体のものである。
MPIとそこに関わる全ての人たちが現代の維新=New Beginningを成し遂げる役割を担っていくことを期待しつつ、第一稿を閉じることとしたい。
date: 2004.01.31 |
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